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あまり知られていないことだが、大阪池田小学校の児童殺傷事件で死刑となった宅間守被告もパーソナリティ障害だった。
宅間被告がそうであったように、「罪」に対する責任は「その人」にあり、「パーソナリティ障害」の責任もまた「その人」にあるのではないか、と思わずにはいられない。それは、パーソナリティ障害が単なる一過性の心の病気ではなく、長年におけるその人の人生の中で培われてきたものであり、「障害」を含めてその人そのものだと思うからだ。
パーソナリティ障害の障害も、体の障害のように治るものではなく、失った機能は回復できない(できにくい)からこそ、病気ではなく、障害と言われているのだと思う。
私はいま書きながら「パーソナリティ障害者」に対する思いを、まだ一面でしか語っていないことに気が付いている。
私の中には、確かに「パーソナリティ障害者」そのものを憎む気持ちがある。でも、どこかで「その人」に対しては、同情や哀れみの気持ちが芽生えているということも事実だ。それは、「その人」を「許す」ということに直結はしていないにしろ、遠く遠くかなり先かもしれないが、もしかしたら「許し」という感情につながっているのかもしれないとも思う。
なぜ、パーソナリティ障害という心の障害が生まれ、パーソナリティ障害者が存在するのか? その生まれる過程を考えるとき、パーソナリティ障害者となったその人は、無力であったと思うからだ。
私の中でココロハカイダーとココロハカイダーマンが誕生してから、私は少しずつではあるが、私の敵はココロハカイダーマンではなく、ココロハカイダーだと思い始めた。
ココロハカイダーは、宅間被告がパーソナリティ障害だということを多くの人に知られなかったことを、まんまと喜んでいるように思える。
これまでの凶悪事件や多くの事件には、ココロハカイダーがかなり潜んでいたことと思う。でもそのことは、公表されなかった。それは、「パーソナリティ障害者」を差別しないためだ。
「パーソナリティ障害者」であっても、自らその障害であることに気づき、その障害を克服しようとしている人はたくさんいることだろう。その存在を思うとき、事件をおこす人が「パーソナリティ障害者」だというレッテルを貼るのは、たしかに、差別意識につながる恐れがあるかもしれない、と思う。しかし、その人権尊重という庇護の下で、ココロハカイダーはぬくぬくと、平然と、しかも居心地よく潜んでいるのだ。
ここで私は、「パーソナリティ障害者(ココロハカイダーマン)」と「パーソナリティ障害(ココロハカイダー)」を分けて考える必要があると、改めて思う。自分がパーソナリティ障害だということに気が付き克服しようとしている人は、ココロハカイダーと戦っている勇者であり、その人の中にいるココロハカイダーは居心地が悪いはずだ。でも、自分がパーソナリティ障害だとは、まったく気づきもせず、周囲を困らせてばかりいる人の中のココロハカイダーは、居心地よくしめしめと喜んでいるに違いない。
「知る」ことから始まる
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