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心のケガやキズについて

ココロハカイダーマンとは

ココロハカイダーとココロハカイダーマンは、私の中に現れたパーソナリティ障害に対するイメージだ。私がこのページを作成したのは、パーソナリティ障害者を単なる悪役にしようと思ったからではない。
 けれど、パーソナリティ障害者の周囲にいて困っている人たちにとって、自分を困らせる相手はやはり悪に違いないだろう。
 性善説、性悪説のどちらかを支持するわけではないが、人が「悪」になるにも「善」になるにも、過程があり、原因があるのではないか、と思う。
 でも、人は同じような環境にいても、全く違った人生を歩んでいる人もいるし、それはもしかしたら遺伝子にも関係しているのかもしれない、と思う。
 さらに考えていくと、なぜその遺伝子は、そのようなにできているのか。もしかしたら、遺伝子に組まれたプログラム自体にも意味があるのかもしれない。
 身近にいるパーソナリティ障害者が、どうしてココロハカイダーマンになったのか?その過程や原因を考えてみること、そして、自分の周りにココロハカイダーマンがいる意味を考えるきっかけになれば、と願って、このページは作成した。

   黒いマントのような存在、ココロハカイダー。ココロハカイダーは風邪やインフルエンザのウィルスと同じように、いたるところに潜んでいて、自分が取り付ける人間がいないか、いつも探している。そして、抵抗力の弱った人間が病気にかかるのと同じように、心の弱っている人間にとりつくのだ。
 心の弱っている人間とは、たとえば親の愛情をあまり受けず、いつも自分は見捨てられるかも知れないという不安を持って育った人間だったり、その逆で親の愛情を過剰に受けたため、本来自分の力で獲得しなければならない自分に自信を持つということができない人間だったりするかも知れない。


 

     


ココロハカイダーはウィルスと同じように、いたるところに潜んでいる。
  愛の足りない人=健全な愛情をもらわずに育った人は、本当の自分に自信が持てず、自分を好きになれないため、自分のハート(心)を簡単に差し出してしまう。   ココロハカイダーと愛の足りない人は合体するとココロハカイダーマンになる。
ココロハカイダーマンの中には愛の足りない人がいる。
   できるだけ、早いうちならココロハカイダーのマントを脱がしやすいのだが合体して長くなればなるほど、そのマントは、はずしにくくなる。ココロハカイダーのマントはその人と一体化していくのだ。一体化している人からそのマントを脱がそうとする行為は”死の苦しみ”を意味する。深海に棲む魚が太陽を浴びて生きられないように、マントなしでは生きられなくなってしまうのだ。
 そして、ココロハカイダーマンは周囲の人のハート(心)をどんどん破壊していくのである。
 

ココロハカイダーからココロハカイダーマンへ

 ココロハカイダーは、心の弱い人間に覆い被さると、ココロハカイダーマンになることができる。実態のなかった存在は、人間と合体することで「人」という実体のある存在になり、次々と周囲の人間の心を破壊していく。そのパワーは、マントをつけていない普通の人間の力をはるかに超えている。
 ココロハカイダーマンが、人間界で大腕を振って活躍できるのは、そのマントが一見して目に見えないからだ。「人」と一体化した存在は、ある時は「個性」、あるときは「特徴」、またあるときは「短所」だったり、ときには「長所」にも見えたりするため、ココロハカイダーマンが、ココロハカイダーというウィルスのような存在に侵されていると言うことを、多くの人は想像すらできない。
 ココロハカイダーの存在に気がついた人間がいても、特別な力を持ったココロハカイダーマンに対抗する術が見つからない。ココロハカイダーの存在に気がついたとき、ココロハカイダーマンは多くの場合、もうそのマントなしでは生きていけない人間になっている。深海に住む魚が深海という条件でしか生きていけないように、そのマントはその人が生きていくための大事な蓑(みの)であり、その人が今まで生きてこられた条件でもあったのだ。ココロハカイダーマンのマントを脱がそうとすれば、大きな抵抗が起きるのは、そのためだ。


ココロハカイダーの狙い

 ココロハカイダーマンは、いつも関心の中心にいて、周囲の人たちは、ココロハカイダーマンを何とかすることで心を遣う。そうしていくうちに、ココロハカイダーの罠にはまり、周囲の人たちは知らず知らず、希望や勇気、やる気、気力、情熱、優しさ、いたわり、いつくしみ、愛情、情け、そういう人間が本来持っている美しいココロを奪われ、その代わりに憎しみや恨み、いらいら、不安、不振、恐怖、罪悪感、無気力、無力感、絶望感、屈辱感、疑念、あきらめという感情を植え付けられていく。それこそが、次の世代へとココロハカイダーの勢力を広げていく狙いだとは知らずに。

 

※パーソナリティ障害(ココロハカイダー)
※パーソナリティ障害者(ココロハカイダーマン)

  私は、同じ苦しみを持つ人たちと自分のこの苦しみを分かち合いたいと思った。
パーソナリティ障害者に対してどうしたらいいのか?その人を中心に巻き起こる様々なトラブルに、どう向き合っていけばよいのか?はっきりとした対処法が今の私にはない。対処法を私はずっと探し求めてきたと思う。それを見つけることができたなら、そのとき私は、同じ苦しみを持つ人たちにメッセージを送ることができるだろうと思っていた。
  でも、どんなにどんなに本や資料を読んで相手を知っても、どんなにどんなに研修やセミナーを受けて、自分の心を強くする方法を身につけても、パーソナリティ障害者が巻き起こすトラブルや厄介事という問題は次から次へと起こり、どんなに心の境界を保とうとしても、目の前で多くの人を巻き込み、苦しめていく問題に心を痛めずには入られない日々が続いている。そしてトラブルを目の前にして、問題の根元であるパーソナリティ障害者に対して何もできない自分自身に無力感や罪悪感を感じないではいられない。


「何もできない」ことからの始まり

 「何もできない」。この言葉が、どれほど私を苦しめてきたことか。「何かできる」。そう思い続け、あきらめずにパーソナリティ障害者と闘ったこともあった。でも結局、闘いは決していい結果にはならなかった。自分の心を慰めると言うことに対しては、確かにいろんな事ができるし、やってきた。でも、パーソナリティ障害という人並みはずれたパワーに対しては、「何もできない」ということを今では認めないではいられない。そしてそのことは決して多くの人に理解してもらえない。それがまたとても苦しい。
 「それでも何かできることはあるんじゃないか」。
そう、私だってそう思いたいし、それならその何かを見つけたい。私は今、そのどちらの思いにも押しつぶされそうな狭間から生まれた「同じ苦しみを持つ人とこの苦しみを分かち合うことはできる」という心の言葉に従い、これを書く決意をした。
 アルコール依存症の人たちの自助グループにおいて、回復のためのステップと呼ばれる「AA12ステップ」の中に、「我々はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」という項目が一番初めにある。
  パーソナリティ障害もまさにアルコール依存症と変わらない心をおかされた病であり、パーソナリティ障害という病の前で、パーソナリティ障害者もその家族もまた、無力であると思う。


「分かち合い」から生まれるエネルギー

 ここまで書いていて、また気が付いたことがある。私は目の前にいるパーソナリティ障害者とは闘ったが、パーソナリティ障害そのものとは闘っていなかった、と。そしてもしかしたら、こうして書く決意をしたということは、世の中のあちこちに潜んでいるパーソナリティ障害とすでに戦闘態勢に入っているのではないか、と。さらにもしかしたら、世の中に潜んでいるパーソナリティ障害と闘うことが、目の前のパーソナリティ障害とも闘うことにつながるのではないか、と。
  遠回りでほんのかすかな望みのようだが、「いま同じ苦しみを持つ人たちとせめてこの苦しみを分かち合う」ということこそが、今の私にできる最大限のことなのだ。
  同じ苦しみを持つ者同士がその痛みを分かち合うとき、それは+(足し算)では計算できない、×(掛け算)の力になると信じることができる。アルコール依存症の自助グループの存在が、私にそのことを教えてくれた。
  パーソナリティ障害者の家族、パーソナリティ障害者によって傷ついた者同士が、その苦しみを分かち合い、はき出すことで、そして集まることで、自分でも計り知れないエネルギーが湧いてくるかもしれない。そしてそのエネルギーを私も心から欲しいと思う。理解してもらえるということが、どれほど嬉しいことか、どれほど救われた気持ちになることか。私自身がそれを渇望している。


誰かのせいではない自分の人生

 

私はこう思わずにはいられない。
どんな人が周りにいようと、どんな人が自分の人生を邪魔しようと、それが簡単には縁の切れない存在だとしても、自分の心だけは自分だけのものであり、何者も汚すことはできないということ、自分自身の人生において自分の心だけは決して誰にも何者にも明け渡してはいけないということ、誰かのせいで何かのせいで自分の人生を台無しにしないために、私は自分だけの心の自由を手に入れ、自分自身の人生を強く生きていきたい。

2004年初夏


 目の前にいるココロハカイダーマンをやっつける方法を、これまでの私はずっと探していた。
ASK(アスク・ヒューマン・ケア)の「家族援助プログラム」で、アルコール依存症とアルコール依存症者を分けて考える、つまり「病気と人を分ける」ということを学んでから、私の中にココロハカイダーとココロハカイダーマンのイメージが現れるようになった。
 それでも、すぐにパーソナリティ障害とパーソナリティ障害者を分離して考えることは難しかった。目の前にいるパーソナリティ障害者そのものが憎たらしいのであって、目に見えない心の障害だけを憎み、その人そのものは悪くないから愛せ、とでもいうのか。そんなこと、簡単にできるわけがなかった。


「人」と「心」を分けて考える?

 アルコール依存症の場合は、その病の根源は「酒」という目にも見える「物」であるわけだから、「人」と分けて考えることはまだできるかもしれないと思う。
 でもパーソナリティ障害の場合は、目に見える敵がいないのだ。「罪を憎んで人を憎まず」というが、もし自分の家族が殺されて、その殺人犯が目の前にいたら、その人を簡単に許せるだろうか? その人が心の病に犯されているからといって、何の反省もなく、自分は人を殺しても正しいと言い、心の病がそう言わせているのだと精神科医に判断されても、自分の大切な人を奪った人の「心の病」だけを憎んで、その人そのものを許すことができるだろうか。
 パーソナリティ障害とは、そのくらい「人」と「心の障害」を分離して考えることが難しいものだ。

 


「病気」ではなく「障害」

 あまり知られていないことだが、大阪池田小学校の児童殺傷事件で死刑となった宅間守被告もパーソナリティ障害だった。
 宅間被告がそうであったように、「罪」に対する責任は「その人」にあり、「パーソナリティ障害」の責任もまた「その人」にあるのではないか、と思わずにはいられない。それは、パーソナリティ障害が単なる一過性の心の病気ではなく、長年におけるその人の人生の中で培われてきたものであり、「障害」を含めてその人そのものだと思うからだ。
 パーソナリティ障害の障害も、体の障害のように治るものではなく、失った機能は回復できない(できにくい)からこそ、病気ではなく、障害と言われているのだと思う。
 私はいま書きながら「パーソナリティ障害者」に対する思いを、まだ一面でしか語っていないことに気が付いている。
 私の中には、確かに「パーソナリティ障害者」そのものを憎む気持ちがある。でも、どこかで「その人」に対しては、同情や哀れみの気持ちが芽生えているということも事実だ。それは、「その人」を「許す」ということに直結はしていないにしろ、遠く遠くかなり先かもしれないが、もしかしたら「許し」という感情につながっているのかもしれないとも思う。
  なぜ、パーソナリティ障害という心の障害が生まれ、パーソナリティ障害者が存在するのか? その生まれる過程を考えるとき、パーソナリティ障害者となったその人は、無力であったと思うからだ。

「パーソナリティ障害者」の人権

 私の中でココロハカイダーとココロハカイダーマンが誕生してから、私は少しずつではあるが、私の敵はココロハカイダーマンではなく、ココロハカイダーだと思い始めた。
 ココロハカイダーは、宅間被告がパーソナリティ障害だということを多くの人に知られなかったことを、まんまと喜んでいるように思える。
 これまでの凶悪事件や多くの事件には、ココロハカイダーがかなり潜んでいたことと思う。でもそのことは、公表されなかった。それは、「パーソナリティ障害者」を差別しないためだ。
 「パーソナリティ障害者」であっても、自らその障害であることに気づき、その障害を克服しようとしている人はたくさんいることだろう。その存在を思うとき、事件をおこす人が「パーソナリティ障害者」だというレッテルを貼るのは、たしかに、差別意識につながる恐れがあるかもしれない、と思う。しかし、その人権尊重という庇護の下で、ココロハカイダーはぬくぬくと、平然と、しかも居心地よく潜んでいるのだ。
 ここで私は、「パーソナリティ障害者(ココロハカイダーマン)」と「パーソナリティ障害(ココロハカイダー)」を分けて考える必要があると、改めて思う。自分がパーソナリティ障害だということに気が付き克服しようとしている人は、ココロハカイダーと戦っている勇者であり、その人の中にいるココロハカイダーは居心地が悪いはずだ。でも、自分がパーソナリティ障害だとは、まったく気づきもせず、周囲を困らせてばかりいる人の中のココロハカイダーは、居心地よくしめしめと喜んでいるに違いない。


「知る」ことから始まる

 

ココロハカイダーと対決するためには、ココロハカイダーの存在を白日の下に知らせ、多くの人がその存在を知り、願わくは、ココロハカイダーマンとなっているその人、なろうしているその人が、
自分の中にいるココロハカイダーの存在に気が付くことだと思う。
 そして、新たなココロハカイダーマンを誕生させないためにも、多くの人に、子育て中の親に、ココロハカイダーの 存在を知って欲しいと思う。
 「知る」こと「気づく」こと、そしてココロハカイダーの存在を「認める」ことから、本当の闘いが始まるのだと思う。

 

 

 私は決心した。ココロハカイダーを世の中の多くの人に知ってもらおう、と。つまり、同じ苦しみを持つ人たちとこの苦しみを分かち合うために、ココロハカイダーとココロハカイダーマンについて書こう、と。
  しかし、また思い悩んでいる。
 どう書くのか? 何を書くのか? 単にココロハカイダーマンに対する悪口や陰口、誹謗中傷になってしまったら、それは、ココロハカイダーマンがやっていることと何ら変わらないし、単に傷を受けた仕返しや復讐、報復になるだけだ。そうはしたくないと思う。
では、ココロハカイダーマンについてできるだけ客観的に書くのか? 私は臨床心理士でもないわけだから、多くのココロハカイダーマンについて研究しているわけでもない。そして、客観的になど書けそうにない。


「わたしメッセージ」

 私は初めに思っていたことがある。「わたしメッセージ」で書こう、と。「わたしメッセージ」とは、カウンセリングで学んだことなのだが、「わたしはどう感じているか」「わたしはどう思ったか」というように、「わたし」を主語にした話し方をするということだ。
 日常の中で多くの場合、「あなたメッセージ」で相手を傷つけていることがある。子供をしかるとき、夫に愚痴を言うとき、仕事で部下を注意するとき、などなど。
 例えば、子供が「お母さん一緒に遊んで」と言ってきたとき、忙しい母親は、「遊んでばかりいないで、勉強もしなさい。もう宿題はしたの?」というように、主語に「あなた(子供)」が隠れている「あなたメッセージ」でとげとげした会話をしてしまうことがある。
これを「わたしメッセージ」に置き換えると、「(お母さんは)きょう仕事が忙しくて疲れてしまったの。ごはんの仕度もあるし、今は遊べないわ」と言ってみたら、子供の受取り方も全然違ってくるだろう。私は、この「わたしメッセージ」で書こうと思っていた。
でも、「わたしメッセージ」で果たしてどこまで書けるだろう?という疑問もあるし、いったい私個人の感じたことが、どれだけ多くの人に読んでもらえるのだろうか。一人よがりにすぎないのではないか。それは、果たして意味のあることなのだろうか? とさえ思えてきた。


私の中のココロハカイダー

 私の決心に対し、無意味感、厄介、面倒、できそうにない、といった数々のマイナスの感情が湧いてくる。けれど、「パーソナリティ障害」を「ココロハカイダー」とイメージしてから、私の中で少しずつ変化が起きているのも感じている。
 それは、いま私の中に湧いている無意味感や厄介、面倒、できそうにない、という無気力に通じるマイナスのパワーこそが、ココロハカイダーの仕業なのかもしれない、と思えることだ。私は今紡ぎ始めた一本の糸を一反の織物にしていく作業がどれほど困難なものであるかを感じている。
  そしてこの作業こそが、実はココロハカイダーという見えざる相手との闘いであることもまた感じている。

 
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