割り切れた割り算 2006年02月24日(金)

   カウンセリングにおいて、自由を感じる瞬間というのは、きっとこういう感じなんだろうなあ。日記を書いているようでもあるのだが、自分一人の世界ではなくて、話を聴いてくれる存在がいる。話を聴いてくれる人は、ただひたすら聞いてくれているだけなんだけれど、一人だけの閉じた世界で考えるのと、誰かに向かって話すという開いた世界で考えるのとでは、自分自身の前へ向かおうとするパワーが全然違う。話しているうちに、どんどん自分の中にある自分の答えに気づく。
 昨日、そんな体験をした。相手は、8歳の息子だ。
 仕事を辞めてもう1年。そろそろ働かなければという思いが最近募っていた。それなのに、専業主婦の私をあてにして、人はどんどんボランティアの仕事を私に頼もうとする。スケジュール表がどんどんうまっていく中、イライラ、モヤモヤも溜まっていた。
 人生は私に何をしろというのだろう?ずっとそのことを考えていた。
 私がイライラしているのを感知した息子は、少し上目遣いで気をつかいながら私の様子を見に来た。
 少し息子に申し訳ないような気がした。
 いまの私の気持ち、家計の状況を、まだ小2なのにこんな話をするのは良くないかなと思いながらも、話をした。
 「お母さんさあ、カウンセラーになりたいとは思うけど、自信がないんだ。こわい。それでお金を稼ぐなんて全然自信がない。お母さんにできることっていったら、やっぱり記者かな?でも、会社では働きたくないし。どう思う?どうしたらいいと思う?」
 すると、息子は一言。「それは、お母さんしだいなんじゃない?」
 即答した息子の言葉に、私はすごく感動してしまった。まるでカウンセラーみたいだ。
 その一言で、これまでずっとモヤモヤしたような霧がかかったような思いが、スッと晴れたような、割り切れないと思っていた割り算が、余りなしでちゃんと割れたような、ストンと自分の中に答えが見えた瞬間だった。
 江原啓之さんの本にあった言葉も思い出した。「天職」が神様から与えられたたましいのための仕事で、「適職」が自分に向いている生活のための仕事なら、いまは適職を選べばいいのだ。私は心のどこかで、適職が天職であり、天職が適職であることを望んでいた。天職と適職、二つがあることを喜べばいいのだ。
 また、記者をやってもいい。1年以上経ってやっと、そう思えた。
 これまで周囲で、私にまた記者をやったらいいと言ってくれた義母や夫の言葉、いろんなことが結ばれてつながっていくのを感じた。
 時間が必要だったのだと思う。でも、人生はいつまでも待っていてくれるのだと思った。
 


人生からの呼びかけ 2006年02月20日(月)

   きょう、千円の収入があった。ただの親切の気持ちでやっていることだったが、千円のお礼がもらえたとき、ありがたくいただくことにした。お金が私のところに回ってきてくれたことに、とても感謝の気持ちが湧いた。
 株価が暴落している中で、私は自分のこれからのことを考えている。やっぱり株でなんとか稼ごうなんて、そんなに簡単にはいかない。何かして働かなければ、と思う。私にとって、これはメッセージなんだと思う。
 何をして働こう。何をしてお金が回ってくるようにしよう。
 最近『生きていくことの意味〜トランスパーソナル心理学・9つのヒント』(諸富祥彦著)を少し読み直した。生きていくことの意味について、また考え直したくなったのだろう。自然にその本を手にしていた。
 「この人生で起きるすべての出来事はつながっていて、そのつながりには、単なる偶然ではない意味がある。」という言葉に、また出会った。
 仕事を辞めるとき、それまで「自分は何をすべきなのか」「自分には何ができるのか」を中心に考えていた私は、これからは「自分は何をしたいのか」をもっと考えていこうと思った。
 けれど、久しぶりにその本を読み直して思ったことは、「自分は何をしなさい」と(天に、あるいは神様に、あるいは人生に)呼びかけられているのか、そのことに耳を澄ましていこうと改めて思った。
 「すべてのことに意味がある」。いつもそう思ってきたけれど、私は自分の人生は自分が自由に作っていくものだという思いが強くなっていた。
 しかし、自分が自由に作っていくもの、とはいえないかもしれないとも感じていた。
 あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、結局進むべきところに進んでいるのは、自分の意志とは無関係に、何かに導かれているような気もするのだ。
 つまり、ぶつかるということは、メッセージが贈られてきているということなんだ。
 何をやってもなかなかうまくいかない今の状態は、じつは、何かにちゃんと見守られているということでもあるのだ。
 だいぶ気分が楽になった。
 いま私が、天に、神様に、人生に呼びかけられているのは何だろう?
 心に浮かんでくるのはカウンセリングのことだ。勉強しても、私はそれを生かしているといえるだろうか?逃げて、腰が引けていて、中途半端になっていないだろうか?
 自分の人生、どれも中途半端なものばかりに思えてくる。 
 江原啓之さんの本も読んでみた。
 どの言葉もすーっと私の中に入ってきた。
 「【感謝の心】今、ここにこうして生かされているということ、うまくいかないことが多少あっても、それは自分を鍛え、学ばせようとする愛なのだということに、いつも感謝してください。困難や障害があるからこそ、人生は輝くのです。それはあなたが愛されているという証拠なのです。」(『本当の幸せに出会うスピリチュアル処方箋』より)
 今日の千円にも感謝だ。しわしわの千円札が、とてもきれいなものに感じられたのだから。
 


自分の中のギャップ 2006年02月10日(金)

   ここのところ、なんなんだろう。なんなんだろうなあ。自分のやりたいこと、やるべきことが、見えてきたような、見えていないような、いろんなことに流されているような気もするし、なんなんだろうと思う。
 夕べは、久しぶりにカウンセリングの勉強会があり、4人のメンバーが集まった。みな話したいことがたくさんあった。守秘義務というマナーの中で、相談業務をしているメンバーは、日ごろ言えない思いをたくさん吐き出した。
 私も最近の中学生のいじめ問題で、加害者になった子たちに授業したことを話した。
 話しているうちに、体の芯が震えるのを感じた。冷静に話そうとする自分と興奮している心とのギャップがそうさせているようだった。時間的には少し前のことなので、自分の中である程度消化された問題だと思っていたのに、全然違っていたのだ。そのことに自分でもまた驚いた。
 生徒たちに「事実と向き合う」という作文を書いてもらって分かったことは、単に殴る蹴るの暴力ではなかったということだ。その事実は、私の胸の深いところに突き刺さったままだったのだ。
 いじめた生徒たちの中には、おどされたからやったという子もいて、問題なのはその子たちに、ほとんど罪の意識がないということだ。
 いまの中学生の間では、セックスを経験した子も多いという。アンケートで「好きならばセックスをしてもいいと思いますか?」という問題には、ほとんどの子が「思う」と答えるのだという。
 メンバーの一人が言った。「コンドームをしていればいいとか、そいう問題ではないと思う。子どもができたときに、その責任を取れなければ、セックスはすべきじゃないと私は思う」と。
 深く深く、うなづいた。確かにそうだ。
 セックスは愛の行為であるべきなのに、興味本位でしてしまう子どもたちも多いのだと思う。
 子どもたちに性教育が必要だと心から思った。学校の保健体育でやるような単純な男性と女性の性器の違いのような話しではなく、なんというのだろう…、命の尊さ、愛の力を伝えられるような、そんな性教育だ。
 それは、私一人ではできないと思う。けれど、仲間がいればできるかもしれない。
 「一人では何もできぬ。しかし、まず誰かが始めなければならぬ」(岸田国士)
 また一つ人生の課題が見えたような気がした。
 けれど、そんな高い目標とは裏腹に、何も予定がない日の私は、ネットの株と編み物をしながら、コタツに入ってグータラリンとしていたりする。
 株はなかなか難しい。何より、お金に対して自分の気持ちをコントロールすることが難しい。
 上出来の日はルンルンで、不出来の日はかなりブルーな気分になってしまう。自分の気持ちのコントロールの仕方を学んでいるような気さえしてくる。
 最近手入れをしていない庭が荒れてきている。生活も心も荒れている現れかもしれない。
 人生の修行はまだまだ途中だなあ。
 


歩く花になる 2006年02月04日(土)

   仕事を辞め専業主婦になって丸一年が経った。
 先日、久しぶりに同じ職場だった先輩にあった。先輩は今も同じ職場で理不尽な社長の言動によりとても疲れているようだった。いまさらたいした愚痴や文句を言うわけではないが、力のない笑顔が、耐えている時間の長さを物語っているようだった。
 私は最近、そんな力のない笑顔であきらめの日々を送っている人に何人も会った。
 そういう人に会って、私はただただ自分の無力を感じる。人生の無常を感じるような、やりきれない、もんもんとした思いでいっぱいになった。
 先輩に会った後、花壇にパンジーやサルビアやインパチェンスなど、色とりどりの花が咲いているのを見て、余計にやるせない気がした。
 花は咲いて人を和ませることができるのに、人だって本当は咲いてこそ、人を和ませることができると思うのに、咲けない花の周りで自分だけ自分の花を咲かせていいものか。咲くならば、一輪だけの花ではなく、花壇いっぱいに花を咲かせたいと思った。
 花を咲かすも枯らすも、花壇の持ち主次第なのに…。なぜ、花を生かすことのできない人が花壇の持ち主なのか…。
 でも、ここまで書いていてまた思う。人は花壇の花ではないんだよね。その花壇がイヤならば、自分に合わなければ、そこから移動することもできるのが人なんだよね。
 私はその花壇から脱け出したんだよね。
 「人は考える葦である」とは有名な哲学者の言葉だが、いま私が思ったのは「人は歩ける花である」ということだよね。
 やっぱり私は私の花を咲かせたいと思う。それこそが私がパーソナリティ障害に出会った意味だと思うから。
 

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