| ■ 「障害」という言葉 |
2005年11月26日(土) |
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障害の「害」の字を最近はひらがなで書くという。つまり、「障がい者」というように。けれど、最近出会った医師は「本当は“障”の字も気に入らないんだよねえ」と言う。「なんかもっといい言葉ないのかな〜」と。 その医師はボランティア活動なども熱心で、医師という権威を振りかざさず、庶民的な親しみのある人柄で、とても人気がある。 5分話をするだけで、その魅力が伝わってくる。 私は自分のHPのことを思った。「障害」という文字は漢字のままだ。 私にとっての「障害」は、その医師にとっての「障害」と何かが違うような気がした。 障害とは、WHO(世界保健機関)によると3つに分かれているという話はだいぶ以前に聞いた。 @インペアメント(機能障害)Aディスアビリティ(能力障害)Bハンディキャップ(社会的不利)の三つで、三番目の「ハンディキャップ」は、実は社会が作っているものだという。 たとえば、耳の聞えない人は音楽が聴けないというディスアビリティはあるが、手話ができる人との間に、ハンディキャップはないわけだ(ということになるのだろう)。 社会や人々が障害を持った人に合わせて近づけば、ハンディキャップは、どんどん小さくなる。 その医師は、ハンディキャップを小さくするためのさまざまなボランティア活動をしている。たとえばRHマイナスの血液型を持つ人の名簿づくりや手話サークルだ。 いろんなところで、その医師の活動を聞くほどに、自分が恥ずかしくなるような気さえしてくる。自分は何をしているのか、と。 私にとって「障害」との大きな出会いはやはり、「パーソナリティ障害」だ。体の障害ではなく、心の障害。 私は最近知った「パワーハラスメント」や「モラルハラスメント」をいわゆる受けていた側だった。その言葉と先に出会わず、私は「パーソナリティ障害」という言葉に先に出会った。 私にとって、その言葉はある意味で、私自身を救ってくれたような気がしている。そういう障害があることを知ったからこそ、相手を憎む感情から放たれ、自分の人生を生きようと思えたような気がしている。 「相手を障害者と見る」ということで、自分自身に決着がついたともいえる。それは、言葉でいうと、なんと差別的でひどいことだろうと思う。世の中では、障害者との隔たりをなくそうとしているのに、私はその区別を持った方がいいと言っているようなものだ。隔たりをなくそうとしている人が世の中の善人なら、私は悪人だ。 けれどやはり思うことは、私は障害を障害として知り、認めることから、新しい一歩が始まると思っている。それは、本人にとっても、周囲にいる人にとってもだ。あの人と私の間に、明らかな隔たりがあることを知っているからこそ、その隔たりをなんとかしようとするのだと思う。 私はたぶん、あの医師が「障害」に対して明るく前向きに取り組んでいることに、嫉妬を感じたのだと思う。 私にとって「障害」は、やっぱり「害」と感じるものだったのだ。「害」と感じたことのない(と思われる)医師にうらやましさを感じたのだと思う。 体の障害と心の障害を一緒に考えることにも、難しさがあるかもしれない。 「区別と差別は違う」というけれど、私自身がその言葉で心の奥底を見つめることから逃げていたかもしれない。本当は、区別と差別の違いなんてよく分からないじゃないか。 あの医師と出会ってから約一週間。自分の心に何かがたまっていく時間だった。 「障害という言葉を別の言葉に変えるとしたら…」。その問題は、たぶんこれからも私の中で折々に考えることになるのだろう。 |
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| ■ 大神島でのお話し会 |
2005年11月19日(土) |
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ここ数日、私の頭を悩ませていたのは、小中学校の全校生徒4人という大神島でのお話し会だ。教師8人、子どもたちは小3から中2までの4人、そして地域の住民約10人くらいを対象に、「人権」についてお話をするということで、私はどんなことをテーマにして、どんな話をしたらいいだろう?とずっと考えてきた。 人権擁護委員という堅苦しい名前のボランティア活動をしていて一番大変なのが、このお話し会でもあるのだが、ある意味で一番気合が入り、ドキドキする分楽しいものでもある。 校長先生や先生方にも子どもたちの様子を聞き、年齢も差のある子どもたち4人に、どんな話をするのか、話といっても、一方的に話すのは苦手なので、ワークショップ風に、一緒に考えてもらう時間にするために、どんなことをしたらいいのか、前日まで、シナリオづくりやプリントなどの下準備に時間を費やした。 そして昨日、ついにそのお話し会の本番だった。 たった4人とはいえ、地域のお年寄りや先生方を前に、ちょっと緊張しながら、会は進んだ。 その日のお話し会の大きな目的は「自分を大切だと感じよう!」。 人権という言葉の意味が辞書ではどう書いてあるのかという話から始まり、クイズや自分のいい所さがしのプリントをやってもらった。子どもたちがプリントに取り組んでいる間、先生方や地域の方にもプリントを配り、「島の宝のいい所さがし」と題し、4人のいい所を書いてもらうことにした。 大人には「簡単に、一言でいいですよ。」と席を回って声を掛けるのだが、みんな悪戦苦闘。これは予想外だった。こういうこと、つまり、ワークショップ風の講話や、子どもをほめるということに、大人がそれだけ慣れていないんだということを、改めて感じた。 それでも、なんとか書いてくれた大人たちの子どもに対するほめ言葉を発表すると、4人の子どもたちはみなうれしそうに喜んでくれた。 ああ、よかった。と思った。私はこの子たちに喜んでもらうためにやっているんだよなあ。 そして、『いのちのまつり』という、自分のご先祖さまがいったいどれくらいいるのかをテーマにした絵本の読み聞かせをし、私がポスターの裏を利用して描いた先祖の図を元に、20代前までの先祖の数がいったいどれくらいになるのかの話をした。 最後に子どもたちが書いた「自分さがし」のプリントを紹介して、いま好きだと思うことを育てていって欲しいということを私からのメッセージにした。 なんとか、45分間を駆け足で終えることができた。ほっとしている私に、中2の女の子がお礼の言葉として、感想を言ってくれた。もう何を言ってくれたのかはっきり覚えていないのだが、落ち着いていて、しっかりいまの気持ちを伝えてくれた姿に、ただただ、こちらが感動してしまった。 反省することは、あれこれあるが、とりあえず終わったことにホッとして、気分晴れやかに帰りの船にのった。10年前に初めてこの島を訪れたときと同じ船長に同じ乗組員のオジーが、たった二人の客を乗せて、宮古本島まで運んでくれた。 大神島の未来を思うとさみしい気もするが、そこに住む人が静かに運命を受け入れているように(私にはそう見える)、私もただ、自分のさだめを生きるだけなのだろうと思う。 この日のお話し会がみんなにとってどうだったのか。すごく気になるところでもあるが、私自身が、4人のために十分な時間をかけて準備したことに、後悔はなかった。 |
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| ■ 新たな門 |
2005年11月13日(日) |
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夕べは、夫の会社の結婚式だった。つまり私にとっては元同僚の結婚式だ。律儀にも私たちを夫婦で呼んでくれたので、息子も連れていった。結婚式というのは、いつ出てもいいものだ。 でも、久しぶりに会社の様子もなんとなく味わって、夫のおかれている立場や、元同僚たちがいまでもキツイ思いをしていることを感じると、ただ単に楽しく会話を楽しむのは難しかった。 そんなとき息子がいてよかったと思う。明るく茶目っ気のあるわが子がいてくれるだけで、場が和み、どれだけ救われてきたか分からない。 夕べも、息子がいれくれたおかげで、会社のことを深く考えずにすんだ。 深く考えたのは、深夜のことだ。 応募した一つ目の童話賞の結果が13日に分かるということだったので、深夜に目が覚めた私は何気なくパソコンを見た。先日やったタロット占いどおり、残念!な結果だった。3通りの占い方をしたのに、すべて未来のカードはよくないものだったのだ。 でも、どこかですっきりした。新たな境地に入るために必要な門だったような気もする。 夫が深夜二次会から帰ってきて、またいろんなおしゃべりをしているうちに、やっぱり義父(社長)の害の根が深いことをまた改めて感じた。 良かれ悪しかれ、私たちの生活は社長によって大きく左右するのだ。久しぶりに、自分たちの不憫さに少しだけ涙が出た。 でも、やっぱり強く思うことがある。たしかに社長の害は根が深いし、私たちの人生に影響するけれど、それでも私は、受けた害がいつか益になるように、自分の中で変換させたい、と。「最大の危機は最大のチャンス」というけれど、「最悪の害も最高の益」に転換させたい。いまは、その途中なんだと思う。 会社を辞めたこと、これでよかったんだと思えるけれど、自分のこれからにまだまだ迷いもある。 でも結局人生は、いつまでもそういう迷いの中を進んでいくものなのかもしれない。 ただありがたいのは、明るい息子がいて、理解のある夫がいることだ。幸せを幸せとかみ締めて生きていこう。 |
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| ■ 待ちくたびれて |
2005年11月09日(水) |
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この秋、9月から10月にかけていくつかの童話賞に応募を試みた。最初に結果が分かるのが11月初旬ということになっているのだが、いまだに結果は発表されていない。1日から待っているというのに。初旬はもう明日までだというのに。ふーっ。日々の生活をしながら過ごしているが、やっぱり気になる。 自分の書いたものが人に評価される、その結果を待つというのは、ちょっとしんどい。ほかのことが気分的に手につかないような感じた。 受験の結果を待つのにも似ているが、またちょっと違うような気もする。大賞となれば、何千点の中のたった一つなわけで、努力したからなんとかなるって問題でもなさそうだし。 3月下旬まで、結果待ちがある。出すまでは良かったけど、待っているのは苦しいもんだ。 自分のこれからの人生がかかっているような気がしているから、待つのがつらいんだろうなあ。 さあて、主婦しよう。もうこんな時間だ。あんまり先のこと、考えすぎないようにしよう。結局できるのは、目の前のことを片付けていくことだよね。 |
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| ■ 障害を越えた凛々しさ |
2005年11月06日(日) |
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先日、宮古にあるハンセン病の国立療養施設「南静園」に行って来た。ボランティアの活動で、今度施設に入所している方たちと交流会をするための打合せだった。 南静園の自治会を代表して、会長はじめ3人の元患者さんと、施設の職員を含めての会議となった。 自治会長さんは、障害の残った手にスプーンを持って囲碁をする方で、地元の新聞にもよく載る有名人なので、私も顔だけは知っていた。 はじめて間近でお会いしたら、なんともいえない「神々しさ」とでもいうのだろうか、凛とした美しさを感じた。70歳ぐらいだと思うのだが、これまでに感じたことがないような清らかさだった。 目の前で3人の元患者さんたちは、どの方も手に障害があり指がないようで、独特な握り方でペンを持っていた。 私はその手につい、自分の視線がいってしまうことをためらいながらも、その感情が決して不快なものではないと思っていた。ただ、その手をしっかりにぎって握手をしたいような気持ちだった。 そんな私の思いとは関係なく、交流会の話は順調に進み、結局自治会が主催して行う輪投げ大会に、私たちも一緒に参加するということになった。 「輪投げ」が盛んだということは、やはり行って相談しなければ、分からないことだった。 南静園にはこれまでも、何度も行ったことがあったのだが、今回も感じたのは、施設がすごく立派だということ。自治会館の会議室は、頭まですっぽり隠れるような背もたれのついた新品の椅子で、大判の横断幕もプリントできるプリンターもあった。 国ができる精一杯の「償い」が、そういう形になったのだろうなあ、と勝手に思いをはせた。 いわれない差別を長年受け続け、家族とも引き離され、病気の苦しみだけでない、さまざまな困難を乗り越え、いまでは国から至れり尽くせりでお金に困ることはなく、心をまっすぐに保つことがどんなに難しい状況だっただろうと思う。 それでもなお、あの凛々しく美しい、内側からにじみ出る自治会長さんの存在に、いたく感動してしまった。 輪投げ大会が、今から楽しみだ。 |
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