愛のチカラ 2005年06月29日(水)

   最近、宮古で悲しい事件があって、人が亡くなった。亡くなった人は以前、市役所の人権相談に来て、私も人権擁護委員として話をきいた人だった。1時間弱くらいだろうか。話をきいてもきいても、その人の闇は深い深い闇だった。その人が帰ったあとも、なんともやりきれない思いが残ったことを覚えている。
 人の心は簡単には救えないんだなあ、とつくづく思う。
 最近沖縄に一人で行ったとき、深夜ホテルのテレビでやっていたアメリカの映画を思い出した。
 たしか筋肉がどんどん働かなくなっていく難病の実在の女性の話だった。患者がごくわずかしかいない難病だったため、それまで治療法がまったくなかった。しかし、その女性を支え、難病の治療法を少しでも早く研究するために医師を動かしたのは、姉妹の愛情だった。
 「できない」というあきらめも、絶望も吹き飛ばし、姉妹のためになんとかしたいという愛情が、治療の可能性を見つけ出すまでに至ったのだった。
 実在のその女性は、たしか2年前に亡くなったが、それまでまったく研究すらされず、あきらめられていた難病の研究が本格化したのだ。
 もし、人の心を救えるものがあるとしたら、やっぱり「愛」なんだろうなあ、と思った。「愛」が何かを動かすんだなあ。
 自分にできること、また、考えていた。
 


今の私にできること 2005年06月24日(金)

   今日は朝から雨。例年ならもうとっくに梅雨明けしている頃なのに、今年は遅い。
 でも、私の気分はけっこうすがすがしい。私に今できることをやっと見つけたような気持ちがしているから、だと思う。
 だけど、なかなかそれを人に言えないでいる。たいていの大人が考える「現実」とは、かけ離れているように思うからだ。
 自分の中で何度も芽生えたけれど、あきらめてきた夢―。今度こそという気持ちになって、やっともう一度顔を出した芽を大事に守りながら育てたい。
 10年ほど前、東京にいた頃、編集の仕事をしながら私は絵本の講座に通っていた。今にして思えば、自分が働いたお金で何かを学ぶために使ったのは、あれが初めてだったかもしれない。
 絵本のことを学ぶのは、編集の仕事にも役に立つ。それが、大人としての自分に言い聞かせるイイワケだったと思う。でも本当は絵本を「創る人」になりたかったんだ。
 あの頃、自分なりにお話をつくってみようと思い、いくつか書いたものもある。でも、それは決して簡単ではなくて、できた作品にあまり自信もなかった。
 宮古島に来ようと思った気持ちの中には、何かお話のタネを見つけられるかもしれない、という希望もあった。
 東京で仕事を辞めて、宮古島に来ることになるまでの数ヵ月、私は図書館に通い、毎日毎日絵本を読んだ。
 絵本を作ることは私の夢だった。でも、絵本の作家なんて、なれるわけない。ましてやそれで食べていけるわけがない。大人として、可能性や確率を考える自分が、「夢」を口にすることさえ押し殺させた。
 宮古島で新聞記者の仕事をするうちに、その夢を忘れていた。楽しかったし、心温まる記事のネタを探すことが私の使命だと思えたからだ。
 でも、時間とともにいろんなことがあった。いいことばかりではなかった。心が辛いこと、苦しいこと、たくさんあった。
 だけどいまは、その時間があったからこそ、本当に「心」に向き合えるようになったのかもしれないと思う。
 今年仕事を辞めるときに思い出したのも、童話を書きたいという夢だった。
 でも、すぐに夢に向かって前へ歩き出せたわけじゃない。
 カウンセリングの勉強をもっとして、カウンセラーになろうかな? もっと何かの資格を取って講師になろうかな? いろんなことを考えて、まだ、可能性の高い現実の方を探していた。
 親しい友人が、「これ以上何かを身につけなくても、今の私にできることがあるはず」と言ってくれた言葉がずっと私の中に残っていた。
 仕事を辞めて半年、20年以上紐解いたことがなかった過去の日記を開いたとき、過去の自分が教えてくれたのは、「私は人を感動させたいんだ」ということだった。
 夢に向かって一歩前へ進もうと思えるようになるまで、時間も必要だったのだと思う。
 まず、つっ走って疲れていた自分を休め、立ち止まり、何かに抵抗する反発力ではなく、本当の意味で自分のために歩こうと思えるようになるまでに、時間が必要だったのだ。
 今の私にできること、どこへも行かずに、お金もかけずに、いまここでできること、それはお話を書くことだと、やっと思えるようになった。
 もちろん、それだけじゃない。ボランティア活動や、カウンセリングの勉強会や、主婦や、母親や、自分の中で一つの柱というのか、幹(みき)が見えてきたら、そのほかのこともちゃんとリンクしているように思えてきた。
 こう書きながらも、本当はほんの少しの抵抗で、つぶれてしまいそうな夢であることも感じている。だからこそ、こうして書いているのだと思う。書くことで、もっと確実なものにしよう、と。いいや、逃げられないようにしよう、かもしれない。
 でも、あんまり窮屈に考えるのはよそう。
 せっかく何度も何度も育てきれずに、またやっと顔を出した芽なんだから。のびのびと自由に育てたい。
 家の近く、歩いて5分もしないところに図書館がある。今日雨降りの中、私は本当に久しぶりに図書館に行って、本を借りてきた。
 いま、お金はないけど、時間はある。タダで本だって借りられる。それだけでも幸せな気分になった。
 


嫁の悩み 2005年06月20日(月)

   昨日は父の日。私にとっては、一年のなかで自分と葛藤する日だ。私は薄情な娘で、母の日や父の日に、決まってプレゼントをしている人を知ると、罪悪感にかられる。今年の母の日には、義母に鉢植えをそれとなく、ラッピングもしていないものをプレゼントしたが、実家の母には何も贈らなかった。
 今年は仕事を辞めたばかりで収入も減ったことだし、あまりお金をかけても親は帰って心配するかな?とか、何を贈ったらいいのか適当なものが思いつかないなあ、とか思っているうちに、これまでも母の日や父の日は過ぎていってしまうことが多かった。
 うちの親は、家族の誕生日やそういう記念日を派手に祝う方ではなく、私が一人暮らしをするようになってからは、お互いの誕生日もとくに電話をするわけでもなかった。それが愛情がないからだ、とか思ったこともなく、実の両親には、父の日母の日などに何も贈らないということをスマナイなあとは思いながらも、まあいいっか、と思える。
 でも、考え込んでしまうのはやはり義理の両親へのプレゼントだ。義母とはお互いいろんな話ができるし、本当に助けてもらっている。義母にプレゼントするときには、気持ちと行動が一致してできるのだが、義父に対してはどうしても本心で体が動かない。
 義父が社長の会社を辞め、義父と距離をおいた生活をするようになり、私の心は少しずつ本当の意味で、毒が消え、楽になってきているのを感じる。
 これまで父の日には、実の親に何もしなくても、義父には何かしらプレゼントをしてきた。でも今年は、いまさらこちらから近づきたくはない。自分の心の平穏を保ちたい。ご機嫌伺いだけなら、あまり意味がないんじゃないか。心の中で、あれこれ葛藤を繰り返していた。
 そんな心のつぶやきを、夫と子どもの前で口にした。
すると息子が一言「お母さんのお父さんは栃木のじいちゃんだから、栃木のじいちゃんにプレゼントすればいいんじゃない?」。
 そうだよね。本当に。実の両親にもプレゼントしないなら、義理の親にもプレゼントしないでいいっか。
 ということで、今年の父の日は、義父に何もプレゼントをしなかった。
 でもなんだか、後味が悪い。
 父の日、母の日にあれこれ悩むのって、女性であればこそなんだろうか?「嫁はつらいよ」だなあ。
 
 


心の風船 2005年06月16日(木)

   夕べは子どもと二人の夕食だった。子どもと二人だけのときは、納豆ごはんに、おかずを2品ぐらい、簡単で助かる。お父さんがいない方が(ちょっとお父さんにはかわいそうではあるが)、子どもは話しやすいのか、久しぶりに学校のことを話し出した。
 1年のときから持ち上がりの担任の先生とは相性が悪く、2年生になってからはさらにつらいこともあるようだ。50代のおばさん先生で、ストレスも溜まっているのかもしれない。
 私は人には体の成長だけじゃなくて、心の成長もあるという話をした。「何それ?」と言われ、心には見えない風船を誰もが持っていて、みんなその風船を死ぬまで膨らませているんだよ、と話した。
 心の風船は見えないから、どのくらい大きいかは分からないけど、大事なことは膨らまし続けているかどうか、ってことだと思う。
 心の風船を膨らますためには、勉強だけ頑張ってもダメだし、頭がいいかどうかとは関係ないんだよ。自分の弱いところやダメなところにもちゃんと目を向けることができるかどうかだと思う。心の風船を膨らまし続けている人は、絶対に偉そうにしたり、威張ったりはしないよ。
 偉そうに、威張っている人は、たぶん心の風船が小さい人だと思うなあ。
 先生が正しい時もあるだろうけど、先生が間違うことだってある。あなたはそれをちゃんと見分けることができて、こうして話すこともできる。あなたの心の風船はいまちゃんと膨らんでいっていると思うよ。

 掲示板でいろんなこと考えていたおかげだろう。「心の風船」の話は自然に心に浮かび、なんだか子どもにも分かってもらえたようだった。
 寝る前に、「ぼくは心の風船、この家よりもっともっと大きく膨らましたいなあ」と言った息子が、とても愛しいと思った。
 「じゃあ、お母さんよりもずっと長生きしてね。膨らまし続けていれば、長生きするほど大きくなるから」。

 でも、後で思った。本当は子ども心の風船の方が、大人より軟らかくい分、ずっとずっと大きいのかもしれないなあ、と。
 膨らますことも大事だけど、軟らかくないと膨れないんだよなあ。
 


埋立地のロックコンサート 2005年06月12日(日)

   昨日、宮古で初めて開催されたロックコンサートに行ってきた。場所はバブル景気の頃に、リゾート地として売れると見込んでつくられた巨大な埋立地。結局、埋立地はバブルを過ぎ、市の大きな負債として整備は進むものの、未来は見えない状態だ。
 これまでに、消防訓練や海の日のイベントなどに少しずつ使われる機会もあったが、今回のコンサートは宮古内外から多くのロックファンが訪れ、5千人以上が集まるビックイベントとなった。何しろ、今話題のオレンジレンジやモンパチ、175R、山嵐、ガルフなど、8つのロックグループが宮古に集結したのだ。
 じつは私はあまりロックには興味がないほうだったのだが、夫と二人、夕方から夜まで初のロックコンサートを楽しんできた。
 このコンサートは、宮古の若者が中心になって創りあげたもので、会場にはさまざまな団体のメンバーなど、多くのボランティアが導入され、「海を守ろう、空を守ろう」を合言葉に、ゴミをちらかさないコンサートが行われた。
 スタッフ以外にも、自主的にゴミを拾い歩く小中学生の姿もあり、いろんな意味で、今の若者のパワーに感動して帰ってきた。
 ズシンズシンと体に響く音楽を聞きながら、私にとっては、自分自身と向き合う貴重な時間だった。夫と二人なのだが、音楽を聞いているときは、私だけの静寂がそこにあるようだった。
 自分が好きなことを、あきらめず、創り上げ、歌い続け、夢を叶え、それが多くの人の心をとらえ、感動させる。「自分が光る」というのは、こういうことなんだなあ、と歌う若者を見て、遠くから思った。
 「自分が光る」って、自分が好きなことをして、自分のためだけじゃなくて、それが誰かのためになるってことなんだなあ。
 夢はあきらめちゃいけないよなあ。
 大人になることは、可能性の低いことをあきらめ、可能性のあるものを着実にやっていくことのような気持ちが、自分の中にあった。
 先人が作った道を歩いて進むことが、確実で、安全で、豊かになることだという考えが、自分の中にあった。でも、果たしてそうなんだろうか。
 自分がしたかったことは、本当は何だったのか?それすら見えなくなっていた。何度も何度も、夢を思い出す機会があったのに、何度も何度もあきらめていた。
 私は、夢を現実にするための努力をしてきただろうか。夢に目をそむけて現実と思われる方向に生きるための努力をずっとしてきたのかもしれない。
 若者の力で、見捨てられていた埋立地で開かれたコンサートは、私にもう少し、夢を「追求」してみようという力をくれたようだ。
 


人生の復習 2005年06月08日(水)

   昨日、なんだか急に、子どものころからつけていた日記を読みたくなって、押入れの中をあさった。
 数年前に実家が引っ越すことになり、それまで実家の自分の部屋にあった荷物は全部片付け、しぼりにしぼった思い出の品だけを自分の手元に持ち帰ってきた。
 箱の中からは、日記のほかに、子どもの頃使っていたお気に入りの白雪姫の目覚まし時計や、ふたを開けるとバレリーナが踊るオルゴールとか、小学生の頃に書いた作文とか、卒業式のときにもらった色紙や友達と交換したカードとか、懐かしい品々がでてきた。
 私が日記をつけはじめたのは、小学校5年生の頃からだ。毎日つけているわけではなく、自分の中で消化しきれない出来事があったときにつけていた。つまり、嫌なことやつらいことがあったとき、中学・高校になると、もっぱら恋のことなどだ。
 いまの自分から見るとささいなことでも、悩み落ち込み、いろんなことを考えていたんだなあ、少しは心も成長したのかなあ、などと思いながら、古びた品々を読み返した。照れくさいような、ほほえましいような、不思議な気持ちになった。
 「中学生日記」と後で自分でタイトルをつけた袋の中からは、中3のとき担任の先生に提出していた日記が出てきた。先生に提出する日記というより、それはほとんど先生との交換日記のようになっていて、当時20代後半(たしか?)で体育の男性教師が、赤いペンで時には数ページにもわたって返事を書いてくれているノートだった。
 その先生のことは、中学1年の頃からずっと憧れで、中3のときに担任になったときは、本当にうれしかったのを覚えている。
 昨日改めてその日記帳を見るまで、そんな心の交流があったことを、私はすっかり忘れていた。白状な生徒だ。
 でも、いまの自分がこうしてあるのは、中学時代、自分と対等に語り合ってくれた先生(大人)の存在があったからだったんだなあ、と改めて感じた。
 栄養の素がなんだったのかは忘れていたけど、しっかり栄養になっていたんだ。
 何に悩んでいたのかは分からないが、普段明るい私が落ち込んで、自分のことを責めて、つらかったとき、先生は「きっと成長するための過程なんだと思う」って書いてくれていた。
 どちらかといえば、男子に人気があって、体育会系のノリで、ちょっと見はヤクザっぽい先生が、中3の女子生徒の気持ちにしっかり寄り添ってくれていた。
 感謝、感謝、感謝だ。
 小学低学年や高学年のときの「将来の夢」について書いた作文や、大学生の頃に書いたメモ書きなどもでてきた。
 昔の自分が考えていたことは、「そうだよね、私はそれがしたかったんだよね。そういうことが好きだったんだよね」ということを、今の自分に教えてくれた。
 過去の自分を知ることで、これからの自分へのヒントをもらったような気がした。
 昨日よりも、前向きになれたような気がした。
 これまでどちらかというと、過去を切り捨てるように忘れ、振り返らないようにしていた私だったけれど、人生の「復習」も悪くないなあ、と思った。
 


家〜HOUSE〜 2005年06月06日(月)

   宮古島は梅雨真っ最中。でも、今年の梅雨は結構さわやかで、雨の日、晴れの日、適度にやってきている。今日は晴れ。湿気の少ない北風でとてもさわやかな一日だ。働いているときは、洗濯を干して、取り込んで、たたむという一連の作業がとてもキライだったけれど、家にいるようになったいま、天気のよい日に外に洗濯物を干すのはとても気持ちがいい。
 最近、庭にアゲハ蝶がよくやってくる。今日はオシリとオシリをつけたアゲハ蝶を見つけた。お昼ごろに見つけて、洗濯物を取り込むころになっても、まだ同じところにいた。羽の小さなシジミ蝶、黄色い羽根の蝶、よく見れば、青い空にトンボもたくさん飛んでいる。家の近くに高い2本のヤシの木があって、実が一つなっているのも見えた。
 この家に来て2年、少し古いけれど、実家にでもいるような安心感がある。こうやって、心穏やかに主婦ができるのも、ある意味でこの家にやってきたおかげかな、とも思う。
 昨日、この家の大家さんのお母さん(オバア)がやってきた。たまに来て、野菜をくれたりするのだが、久しぶりに来たオバアは、立派なゴーヤーを持って来てくれた。
 そして「あんたたちは、まだ家は建てないな?」と聞いてきた。
 オバアは、長年この家で暮らし、この家にとても愛着がある。心臓の病気を患ってから、長男が心配して、自分の大きな家に引き取り、この家は貸し出されることになった。
 長男は人柄もよく、経済力もあって、いわゆるウヤキヤー(金持ち)だ。
 私が「オバアはまたこの家で暮らしたいの?」と尋ねると、オバアは「できればそうしたいんだけどねえ」と答えた。
 私は「これは、困ったな」と内心思いながら、こんなときはどうするべきなのか、笑顔で話を聞きながら、必死に考えていた。
 とにかく、オバアの話をきいてみようと思い、家の中に招いた。オバアの話では、どうも長男の嫁さんと相性が悪いらしく、一人でまたこの家に暮らしたいという望みは、そのことが一番大きな原因らしい。
 はたから見れば、お金持ちで大きな家に住み、息子もやさしくて、いまどき珍しい同居で、おそくできたとはいえ、かわいい孫もいる。一見幸せそうに見える人にも、悩みはあるものなんだなあ、と思った。
 私は、オバアのことを、お金持ちで息子さんに大事にされてうらやましいなあ、と思っていたこと、うちにもいろいろ事情があって、しばらくはここを出て行けないこと、この家がとても気に入っていて、ここに暮らせて幸せだなあと思っていることなどを伝えた。
 帰りしなに、「この家に私たちが暮らしているのも何かの縁だから、家で話せないことも、外でなら話せることもあると思うし、もう一人娘ができたと思って、いつでも遊びにきてくださいね。野菜ができたら、またちょうだいね」と話した。
 オバアは、友達のところへ遊びに行くといって、とりあえず笑顔で去っていた。
 オバアが帰った後、私はこれでよかったよね、と心の中で思った。自分の心の中にわだかまりのようなものは残っていなかった。
 いま、私の四畳半の部屋からは古い赤瓦の家や、静かな近所のたたずまい、子どもが学校から帰ってくる道も見える。
 子どもの頃、学校から帰ってくると母が家で内職をしていて、いつも「おかえり」と迎えてくれた。
 できれば私も、なるべく家にいながらできる仕事したいなあ。何ができるだろう。最近はよくそのことを考えている。
 

トップページ